まほらの天秤 第10話 |
「ダールトン先生?」 僕は視界に映った大きな背中に声をかけた。 失念していたが、ここは人里離れた山の中。 人など本来居ないような場所で声をかけられると思わなかったのだろう、目の前の男性は見て解るほどびくりと体を震わせた後、恐る恐るこちらへ振り返った。 「・・・枢木、か?・・・ああ、驚かせないでくれ」 寿命が縮んだ気がするぞ。 ダールトンはそう言うと、驚いた事がよほど恥ずかしかったのだろう、顔を赤くしながら豪快に笑った。 「こんな所でどうした?迷子にでもなったか?」 ひとしきり笑った後、スザクがここにいる理由を尋ねた。 屋敷から30分ほど歩いた山奥。ここに来るまで、険しい岩場や流れの浅い川を渡って来たから、普通の人間ならもっと時間がはかかるだろう。そんな場所で軽装のスザクと出くわしたのだ、誤って森に入って道に迷ったのだと思われてもおかしくはない。 数日前まで重症だったのだから、本来であれば外出禁止の身。 驚異的な回復力で既に傷は癒えたが、森の中を歩き回る許可は当然出ていない。 「ダールトン先生こそ、こんな山の中で何を?」 「ああ、私か。屋敷にこもっていては体がなまってしまうから、定期的にこうして山の中の散策をな」 確かにダールトンの恰好は、山の中の散策や登山に適した物だった。大きなリュックも背負っている。いや、散策用の荷物に関しては多すぎるほどだ。この量なら、山の中で一泊する道具でも入っていそうだ。 だが、医師であるダールトンがそんな理由で長時間屋敷を離れるとも思えない。 妙な違和感を感じながらも、スザクは成程と頷いた。 「僕は、自分が発見されたという事故現場を探していたんです」 重装備なダールトンとは違いスザクは軽装。 Tシャツにジーンズ、スニーカーという、その辺を散歩するような格好だ。 どちらがこの場所に不適切かといえば、間違いなくスザクの方だった。 迷子と間違われてもおかしくはない。 「なるほどな。だが、事故現場など探してどうするつもりだ?」 あの場所には何も無いぞと、ダールトンは眉を寄せた。 好奇心だけで探していると思われたのかもしれない。 「荷物を探したいんです。多分、僕が倒れていた近くに落ちているんじゃないかと思いまして」 あの中には衣類だけではなく、パスポートやビザ、財布なんかも入っているから見つけたいのだと説明した。 「そう言えば、バイクは警察にあるが、荷物が無かったな」 納得したという様に、ダールトンは頷いた。 スザクはあくまでも外国人。 パスポートやビザを無くした時は手続きが非常に面倒だし、一度日本へ、という流れになる可能性もある。 ダールトンはそれれらを探す事の重要性をすぐ理解した。 「確かに、あの周辺に落ちているかもしれない。案内しよう、こっちだ」 着いてこいと言う様に、ダールトンは獣道を先に進んだ。 「え?ダールトン先生はご存じなんですか?僕が見つかった場所を」 そう言えば、この人には尋ねてなかったかもしれない。 スザクは慌ててそう聞いた。 「ああ、知っている。枢木の容体ばかり気になって、荷物の事はすっかり失念していた。すまなかったな」 何せ全身血まみれで、呼吸も浅かったから、治療を優先したのだ。 当時の事を思い出したのだろう、申し訳ないという様に、ダールトンは頭をかきながら言った。 「あ、もしかして僕を見つけた方と言うのは、ダールトン先生なんですか?」 ダールトンが向かっているのは、森のさらに奥の方だった。 この場所は、あの事故に気がついた者がやって来るにしては、遠すぎる場所。 普通に考えれば、こんな山の中に人はいない。 使用人でもだ。 だが、ダールトンがあの日もこうして山の中を散策していたというのであれば、事故に気付きスザクを見つけたという言葉は納得できるのだが。 「・・・ああ、私が見つけた」 それは肯定する返事ではあったが、一瞬あった間が妙に気になった。 それから10分ほど歩いた先に、少し開けた場所があり、背の低い草が生い茂るその場所には、血の跡がいまだに残っていた。 見上げると、少し離れた場所に、おそらくあの事故現場だろう山を削り取ったような崖と、緩やかなカーブを描く道路、その周りを縁取るガードレールが見えた。 ガードレールは大破したらしく、仮修復をしたという痕跡が見て取れる。 あそこから、ここまで飛ばされた訳か。 そうか、森からではなく、道路の方から探せば早かったんだと、いまさらながら気がついた。結果として発見者であるダールトンと会えたからいいが。 「ここで、枢木を見つけたのだ」 「・・・そのようですね。ありがとうございます、助かりました」 そう返答しながらも、これは拙いなと考えていた。 あそこからここまで吹き飛ばされたから、当然ではあるが地面には血痕が残っていた。既に乾燥してはいるが、おびただしいほどの赤黒い痕跡に、あの事故で死んだことが簡単に判断できた。 そもそも、不死と言っても、多少の傷や不調が即座に治るという便利なものではなく、大抵のものは自然治癒に任せるという・・・普通の人間と変わらない物だ。 ただ、命にかかわるほどの大怪我や、死そのものが訪れると、不老不死のコードが即座に反応し、全ての傷が癒される。 骨折をした時や、あまりにも不調が続いた時などは、その性質を利用するために命を断ったことも1度や2度ではない。この事故以前に感じていた倦怠感や、体の不調も今は全て消えていて、自然治癒不可能なほどの重症、あるいは一度死んだことで体がリセットされた可能性はあると思っていたが・・・。 これだけの出血だ。おそらく全身の骨が損傷し、内臓も激しく損傷したに違いない。 見た目も、まさに死体と言っていい状態だったのではないだろうか。 「幸いと言うべきか、あの日以降雨は降っていないから、血の跡もあの日のままだ」 一度落ちた後バウンドしたのだろう跡もしっかりと残っており、多すぎる血痕から、肉体が受けたであろうダメージを想像したダールトンはスザクを見た。 医者であるダールトンは、倒れているスザクを見て即死と最初判断していた。 だが、こうして生きていて、しかも傷までもう癒えている。 驚異的な回復力を持つ人物だと考えるしかないだろう。 もしかしたら枢木スザクも同じ体質だったのかもしれない、と考えていた。 スザクもまさか不老不死ですとは言えないため、ダールトンの反応は無視して視線を辺りに巡らせるが、視界に入る場所にはない。あの崖からこちらまでそれなりに距離もあるから、その間の木の枝に引っかかっている可能性もあるか。 さて、どこから探そうか。 さわさわと揺れる木の葉を見上げながらそう考えた時。 あの時聞こえた幻聴が、また聞こえてきたきがした。 聞き間違いか?と思いながらも耳をすませる。 木々のざわめきや虫の声の中から、目指す音を探す。 ・・・ーン。 やはり自然では無い音が、風に乗って流れてきた。 そちらの方へ体を向け、歩きながら耳をすませる。 チリーン。 また、聞こえた。 チリーン。 間違いない。 あの日聞いた涼やかな鈴の音だった。 |